砥鹿神社とは

about

御由緒

大己貴命(おおなむちのみこと)をお祀りする神社

砥鹿神社は本宮山に千三百年以上前から鎮まる神を祀る奥宮と、里にて祀る里宮とで二所一体の崇敬を集める神社。また三河国内の筆頭神社一之宮です。
里宮の社殿は伝統的木造建築の檜造りで、鎮守の杜は欅や楠の大樹が茂り桜や紅葉が四季を彩ります。

御祭神

神代日本の国づくりをされた神
大己貴命(おおなむちのみこと)大国主命(おおくにぬしのみこと)

砥鹿神社の御祭神

砥鹿神社にお祀りする大己貴命(大国主命)は日本神話において国津神(くにつかみ)の主祭神(しゅさいじん)とされる。また大国様(だいこくさま)と慕われる御祭神は、福徳の神・国土開拓の神・縁結びの神として尊崇せられ、交通安全・家運隆昌・厄難消除等の御神徳は、三河地方はもとより各方面からの篤い崇敬を受けている。

里宮SATOMIYA

大宝元年~四年
(西暦701年~704年)鎮座

四囲を欅、楠の大樹に囲まれて、荘厳な檜造りの社殿が建つ。
大己貴命をお祀りする三河国一之宮砥鹿神社の里宮である。その信仰の歴史は千三百年を遡る。
古くから朝廷の崇敬篤く、平安時代には「延喜式内社」に列せられ、三河国の国司が国内神社に巡拝奉幣する筆頭神社「一之宮」となった。
その後、江戸時代に入っても周辺藩主の信奉篤く、また明治四年には国幣小社に列せられた。

詳しくは里宮散策へ

砥鹿神社里宮

歴史

里宮の歴史

砥鹿神社里宮の歴史

砥鹿神社里宮の歴史

「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。
そして、里宮に大神が鎮まるに至った経緯を、「三河 国一宮砥鹿大菩薩御縁起」(天正二年)は次の様に伝えている。

文武天皇の大宝年間に天皇の病を鎮める為、草鹿砥公宣卿が勅使として「煙巌山」に使わされた。公宣卿は三河の山中において道に迷うが、この時出現した老翁の導きにより無事祈願を果たし、天皇の病も平癒された。天皇はこの老翁に礼を尽くすため、再度この地に勅使を使わされた。

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奥宮OKUMIYA

神代より大神様が鎮まる霊山

砥鹿神社奥宮

標高789メートルの本宮山(ほんぐうさん)。各所には古代祭祀遺跡が点在することから砥鹿神社の創祀(そうし)と考えられます。

歴史

奥宮の歴史

神代より本宮山は大己貴命(おおなむちのみこと)の神霊が鎮まる霊山。その姿が秀麗で東三河平野のどこからも拝することが出来るため、古代の人々の崇敬の対象とされてきました。
また、御山の頂上をはじめ、山中に横たわる巨巌(きょがん)や御神木の大杉などの巨木(きょぼく)の存在は、神々の鎮まる磐座(いわくら)・磐境(いわさか)として崇められ、宝川を始め御山から平野に流出する幾筋もの渓流は、稲作の豊かな水源として尊ばれてきました。
大宝年間(701年~704年)には、神託により里へ社殿を造営にあたり山頂の社(やしろ)を奥宮、里の社殿を里宮と称して、二所一体の崇敬をあつめるにいたりました。

砥鹿神社奥宮の歴史

砥鹿神社奥宮の歴史

砥鹿神社奥宮の歴史